只今から昭和三十九年十一月六日夜の御理解を頂きます
最近お道の、根性でいこうというようなことを、ちょいちょい聞きましたり、または読物で見たり致します。「根性でいこう」。確かになにでも、同じことです。根性が必要ですね。例えばあのオリンピックで日本の選手が、金メダル、銀メダルを取ったり、例なんかもうでの、点からいぅでも、体技、体格の方からいぅても、陸上からいぅても、外国の選手より 劣りがするんだけども、身劣りするんだけれども、結局、根性で勝つね、バレーの選手なんか根性で勝ったんだといわれております。
普通、此の辺でいうあの人は根性もんとだからいう、あれとはちょつと違うですね、根がない、ところがですね、根性はなくてですね、意地の悪い人がおる、意地の悪いと根性とは、違いますね、
さっき夕食後でした、先生方と色々と話をしてからどうじゃろうか、私は、皆さん先生方から見てから、先生は、意地が悪いと言われることがないだろうかと、尋ねたことでした。久保山先生は黙っておりなさる、古賀先生は、いやそうなことはなかですよと、いや、やっぱりそういう風に見えたり感じたりすることがあるのでは、ないだろうかと思います。久保山先生から、後からもういっぺん聞かせてもらって。
もう大体もうそのなんというですか、性根の中に、意地悪いったようなものがあるやらならば、有る無いならば、やはりとっさに、あの人は性根がいいとかですね、その、意地悪ではないと言うことですね。もう実はでておりますね、その人がいうたり、したりすることの中に、そこでやはり申しましたことですが、ね、古賀先生やっぱり私がいつもその、まあ言うなら、お人善の先生だけでも、ここで、信心の稽古したり、修業したりするのはいかん、間違うておるときは、私は返事もせん、物もいわん、内の先生は意地が悪いか、そういうときに、そういう風な見方をしたんでは、いけないけれどもねというたことだったけれども、結局そんなら自分の意地のわるさというものは、やはり自分で分かるわたしはね、自分達の心の中にある、自分に気がつかない意地の悪さといったようなものが、徹底とり除かなければ、お陰は頂かれないと思うね。
意地が悪うても、根性もんでもそれは、一生懸命拝むとか一生懸命修業することによって現れるお陰もあります。けれどもそうようなお陰では、いわば一生懸命を止めたときにはもうお陰は落とします。いわばその意地の悪い人でもお陰は受けられます。けれども意地の悪い人が、信心を疎かにしたり、一服したりしますとね、もうお陰は立ちません。意地が悪うても一生懸命になれャお陰は頂けるんですけど、これでは、本当のことじゃないですね。意地悪的心が自分の中にあってはね、神様と、もうそのときは交流しない
意地悪そうな目付をしてとか言うでしょうが、意地の悪い態度をとるとかね、私は、大体自分に意地悪いのがあるかもしれんが、私は、意地の悪いのが一番嫌いですね。もう、本当にいやですね。あれは、そんなことを思わせて頂いて、さっきここに着かせて頂いたら、御理解の百節、九十九節、九十八節そのご理解百節ありますね、一番最後から三つのご理解を頂きます。だから私は、今晩の御理解をそこからなぜ意地悪かればいけないか。聞いてももらいたいと思います。読んでみなすね。
「御理解第九十八節心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ、落ち着いて静かに願え」
心は神信心の定規じゃによってね心は神信心の定規なのです。そういう時どうでしょうか、意地の悪の心がここににあったら、自分の心の中に有難いなあ、例えば相手から意地悪されても、それを有難く受けさせて頂くような心、ね、そこにご神意を悟ろうとするような向上心、自分の心の中に「有難いなあとか勿体無いなあと、いったようなものがです、私の、心の中に、なかなければお陰は受けれない 所謂、心は信心の定規じゃによってとおっしゃっています。もうすでにここでね、根性ではない、神信心意地が悪いというのは、もう、これだけで神様と通わないことが分かるでしょうが、「お伺えする時には、とりわけ平気な心でなければならぬ、落ち着いて静かに願え」。
所謂「平気な心」というのは平生心のことです。自分の心が意地悪い心があるときは、心が穏やかでないときですね、その平生心、所謂、神様にお伺いする時には、所謂、お伺いする例えば交流の道いうものが、神様と私どもの間に交流する道というものが途絶えてしまうのですね。静かに落ち着いて願うことができないね。
次に九十九節「無学で人が助からぬということはない。学問はあっても、真がなければ人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておるものがある。此の方は無学でも、みなお陰を受けておる。」
ね、無学でも人が助かる。例えば無学でもどういぅいぅなら、まあ、阿呆と言われるような人でもお陰は受けられるということ。ここのところを、私は、その考えて見なければいけないね、「学問があっても真がなければ人は助からん学者が身を食うと言うことがあるという)どういうわけで、学者が身を食うというような言葉を使ったか、教祖はエー理解しておられる。理解付けられておられたかと思う。ということは、学問ということだけでは、ないと思うね。例えば、こういろんなものに秀でる、器用なものの、なんでも出来れる、所謂、凡人ではない、気がきいておる気がきいておるからというて 頭がよいからというておかげが受けられるのじゃないけれども、むしろその頭のよい人やら、気のきいている人やら、学やら遊ぶとです、なかなかこの人は、学あるところを見せようとする。自分が出来れるところを、出来れるところを見て、人を軽う見る、そういうところからやはり、学が身についているほどし、ほどしほど私は、性根がよくないような気がする。性根がよくないちゅうと、大変語弊が悪いです、語弊になりましょうけれどもね、何故かという、自分で勉強してからそれだけのことが、出来ておるでしょうが、それが、鼻にかかるわけなのですね。
学が出来て、学があって、そして心がいつも平生心である。意地の悪い心がなかなら、これは愈々鬼に金捧なんだけれどもねだからそんな人は自分の気に入ったものにはムゴウいって教えよる。自分の気に入らん者にには意地悪する。ね、だから、むしろそうでも何にも知らんならば、例えばそういうような意地の悪い心が出てこんから、まだましだということが考えられますね。私は、勉強をするなというのじゃないですよ。いろんなことに稽古をして、身につけて行くなというのではないですよ、けれども、そういうようなものが、身について行けば行くほどにです私は、自分の心の中から意地悪い心と言うものを、取り除いて行く、一生懸命にならなければいけない、むしろ私は、なあーにも、私はなあーにもでけんから、じっさいでけないね。でけないないから、ほんとに私は、なあーにもでけないからと、言うような人ほど、本当にですね、意地の悪い心というものが段々少ないのじゃないかと、私は、思うですね。自分はなあーにも出来んから、いつも、こうまあへりくだって居る。だから、それが、卑屈になってはいけないけれども、所謂、「無学な百姓で相いわからず」というようなかたがです私は、この意地の悪い心やらが出らんのじゃろうかと、私は、思う。
どうしても、あの人の手を経んにゃ出来んもん、あの人に頼まんにゃ出来んもんだから、人がチャホャする人には、パットこう、例えば一つのことでも、教えてやろうとするけれども、習う身分じゃないか、それでその頭を下げてこんならばと、いったような、意地の悪い心が起こってくる。本当言うたらです、例えばそのものでも言いきらんごたるしの、ほどしほど、実はその言いきらんのです。道理を言いきらんだからここで私共の、心の中にいつも、神心というものがあって、そういう人ほどにこうなにか、教えことがあるならば、教えてやろう。教えさせて頂こう。自分の知っておるものを習いたいと、向こうが思うておることが、分かるならば、教え向こうが、こうしなければ教えてやらんという、そういうようなことでは、私はすでに心すでに神に通はない。
第百節「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ」。
めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂る葉も茂る。金光大神はそういうようないわば、そんなら子孫繁盛の道を教えてくださるのです。一番に「めでためでた」ということ、「めでためでた」と例えばめでたのお祝い的なことが、こゝにありよっても、自分の家にありよってもです、その人の心のなかにも、どうでしょう。意地悪い心があったら一つも、めでためでたの心すら、その人には許されないと思う。ね。
例えば今日も息子がご祝儀、今日は娘が嫁く、今日は何に何にお祝いが家であるという時でも、意地が悪かっては、そのお祝いの中にあって、お祝い気分であるところの「めでためでた」という気分を神様が許しなさらんですと私は思う。
善導寺の親先生あたりは、もうお月次祭のたんびに、ご説教なさる前にたんびに「皆さんおめでどうございます。」こう言われます。福岡の吉木先生なんかは、毎朝ご祈念が終わってから、御理解を説かれるときには「皆さんおめでどう」。と皆さんにこう呼びかけられます。それだけやはり、助かっておられると思うです。
私どもは、まだそれが言えん、毎日、おめでどうということが言えない。それこそ月次祭たんびに「おめでどうございます」と言えない。本当に日々自分の心が、目出度うならば本当に「おめでどうございます」とこう言えれるようなね。私になりたい。言えないそこには、私の心の中に、先ず意地の悪い心があると、悟らんにゃいけん。神様に交流しない心が、例えば、意地の悪い心で、心の為に交流しないならばです、先ず自分のそうした意地の悪い性根を、取り除かさせていただくことに、精進しなければならない、私は、思です。夕方からそのことを、思わして頂いておりましたら、御理解百節、九十九節、九十八節これを、続いて頂くのですね。ですからこれをただ、最後の三つの教えをこう引用致しましても、成程意地が悪うてはね、目出度くなれないし、心の信心、神信心は自分の心の定規じゃとおっしゃるが、定規があてられない、自分のそうような心ではね、いかに学があっても、物事が秀ておっても、そのために自分が、意地悪なるのだったらね、それこそ学者が身を食うという結果になるのです。
どんなに目出度いお祝いの座というてもです、自分の心が滅入ってしまったり、もやもやしたりしてから、有難うなれないならば、先ず私はその、目出度、目出度の心になれないということの中にです、自分の心の中に、神様の機感にかなわない、いわゆる、意地の悪い心というのがあることを悟らしてもろうて、そういう心にの、を除かして頂く、ね。いうならば、仏心、神心、そういうようなあり方にならして頂いて、いわゆる「有難いなあ、有難いなあ」とこう思えれるような心をです、頂いていくことに焦点を置かなければいけん。そんな風に思いますですね。おかげ頂いてありがとうございます。